今回の大震災に係る数々の災害と社会の混乱の中で、科学者として思うことを、私信として記しておきたいと思います。
まずは、日本から届く知らせの中で、「専門家は、たいてい、私はその専門家ではありませんと答える」との意見を聞きました。結論として、私は、それはその通りだと思いました。"たいてい"の場合、近い分野に取り組んでいても、科学が細分化している今では、まさにその専門ですという人は限られていると思います。だからといって、ごく一部の限られた専門家に依存して、意思決定を行えば良いと言っているわけでもありません。ただ、いわゆる専門家にも、科学的な"確からしさ"にも、バラツキがあることを強調したいだけです。
先の言は、間違ったことを述べる可能性があるために予防線を張っているとして理解されるかもしれません。しかし、科学の理解が深まるほどに、対象範囲がさらに広範になってきます。現在の科学の情報量や分野の多さの中では、どのような専門家も限られた分野の専門家に過ぎず、自身のカバーする範囲を超えたこととなると、確かだと相当な確度をもって社会に発信できることは非常に限られると思います。今回のような社会や人の安全・健康に関わることであれば、なおさら断言することは難しいと思います。先の言は、発言者の予防線としてではなく、専門家とされる人の発言は100%の確かさを持っていると鵜呑みされることへの予防線として捉える必要があるとも思っています。
私は、専門家の見解のミスや曖昧さを擁護したいのではありません。ただ、専門家が言っているからと、多くのミスリーディングが起こり得ることを懸念しているだけです。論文で"孫引き"をするような感じで、情報を得て発信することは容易だけど、それは「解説者」に過ぎないと思います。真摯な専門家ほど、孫引きのような情報を良しとせず、結果として言えることが限られるのかも知れません。
私も科学者の1人ですが、違う科学のことはただの素人であり、いわゆる一般市民です(多少科学的な見方ができるだけで、専門知識は場合によってはほとんどないです)。ただ、科学には確からしいとされていることがあり、それらの確からしさの程度にもバラつきがあり、たいていの場合、反する仮説も存在していることを、認識しています。専門家が言うから真実なのだろうと鵜呑みされることは危険だと思います。社会の各人が色々な意見を収集し、あくまで客観的に多様な意見を取捨選択する能力を得ることが、重要だと感じています。これがリテラシーと言われるものなのでしょうか?
専門家には専門家の責があると思います。今回のような状況でこそ、科学ができることが多くあると思います。分からない、予測できない、想定外と言って、科学の無力さを露呈するだけではいけないと思います。ただ、不確実性があること、想定外なことは、必ず生じると思います。すべてが想定内ならば、科学は不要であり、人間は万能の存在だと思います。
今回の一連の災害が、既知の事象の範囲内であったならば、リスクに対する備えの怠慢さが問題であり、科学と実社会とのリンケージの弱さが露呈されたことになります。あるいは、科学的理解を超えたことならば、科学の想定外の事象が起こり得ることを認識し、今後につなげることが必要だと思います。
いずれにせよ、科学の在り方、科学の発信の仕方、科学と社会のつながりを考えさせられました。そして、自身の知識の狭さ、できることの少なさも痛感しています。今は、社会や科学について考えながら、普通にできる日常を普通に過ごすことが重要だとも思っています。