2011年4月アーカイブ

利用と破壊

カナダの山岳地域では、観光は重要な産業です。以前は鉱山が主要産業でしたが、今では、スキー、氷河ツアー、トレッキングなどが、地域の振興の核となっています。

 

以下の写真は、Purcell(パーセル)山脈に位置し、Jumbo Glacier と呼ばれる氷河地帯です。夏はトレッキング、冬はヘリスキーでポピュラーなところです。

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ジャンボは、BC州の豪雪地帯、パウダートライアングルの真ん中にあり、雪質・量ともに最高な場所であることから、バックカントリースキーをするには、素晴らしい場所です。しかし、氷河を用いた通年型のスノーリゾートを作ろうという計画が持ち上がっています。

Jumbo Glacier Resort」 という名前で計画が進んでいるのですが、ここに、5500部屋のホテル、750部屋のスタッフルームを建設し、冬は3400mまで100%天然雪で、夏は700mまでの氷河を滑る、という通年営業スキー場を建設するとか。計画が実行されれば、ハイシーズンには国内外から多くの客が訪れるし、建設には雇用も生み出せるでしょう。 

一方で、Jumbo エリアは、グリズリーを含む多くの野生動物の重要なコリドーになっていることからWild Jumbo という団体が反対しています。また、スキーヤー、研究者、そして住民の大半が反対しているとか。

ツーリズムやレクレーションの観点からすると、バンフホットスプリングスホテルやシャトーレイクルイーズがそうであったように、最初は強い反対があっても、リゾートとして成功すると、たくさんの雇用が生まれ、外貨が流入し、経済が潤い、住民にとってはなくてはならない観光資源となるかもしれません。しかし、Jumbo の場合、町から遠いことや、すでにパノラマ・リゾートがあることから、さらにリゾートを建設することを住民に説明して納得してもらうのは難しいかと想像します。

 

ちなみに、カナダでは有名な、Kicking Horse Coffee。いろいろ種類があるのですが、その中に「JUMBO WILD」というブレンドがあります。裏にはしっかりと、スキー場建設反対のステッカーが貼ってあります。

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このキッキングホースコーヒーは、フェアトレードやオーガニック認証を取得したコーヒーであり、環境などへの配慮が伺えます。しかし、一方で、キッキングホース自体には、巨大なスキーリゾートがあります。そこで出されているコーヒーはすべて、このブランドのコーヒーです。それを考えると、状況は複雑です。

キッキングホーススキーリゾートは、もともと小さなスキー場だったものを、住民投票の結果94%の賛成を得て、海外資本を導入し大規模に開発されたものです。今となっては、この巨大リゾートは、小さな山間部の町であるゴールデンを支えています。このことからも、開発は地域振興に必要でしょうし、自然環境に対してレクレーションをもとめることも重要だと思います。

一方で、過度な開発は当然ながら避けるべきでしょう。では、開発は、早い者勝ちなのでしょうか?私自身は、スキー場を利用ますが、過度な開発は避けて欲しいです。この点は多くの方がそう考えると思っています。 開発と保護の線引きはどこで決まるのでしょうか?

 

この約150年間、すでに町を作り、線路を通し、道路を作り、BC州のグリズリーのハビタットは、縮小されてきたと思います。そして今、これ以上の自然への干渉を避けようと思うのは必然だと思います。では、どれだけ利用し、自然環境に影響を与えるのが許容され(あるいは、産業としてのツーリズムとして歓迎され)、どこからが破壊として拒絶の対象になるのでしょうか?

 

利用のための開発と破壊と捉えられる開発の境界は、生態系の自然攪乱と社会に対する自然災害の境界と同様に、私自身がより明確な意見・見解を持ちたいと思います。

 

科学について思うこと

今回の大震災に係る数々の災害と社会の混乱の中で、科学者として思うことを、私信として記しておきたいと思います。

 

まずは、日本から届く知らせの中で、「専門家は、たいてい、私はその専門家ではありませんと答える」との意見を聞きました。結論として、私は、それはその通りだと思いました。"たいてい"の場合、近い分野に取り組んでいても、科学が細分化している今では、まさにその専門ですという人は限られていると思います。だからといって、ごく一部の限られた専門家に依存して、意思決定を行えば良いと言っているわけでもありません。ただ、いわゆる専門家にも、科学的な"確からしさ"にも、バラツキがあることを強調したいだけです。

先の言は、間違ったことを述べる可能性があるために予防線を張っているとして理解されるかもしれません。しかし、科学の理解が深まるほどに、対象範囲がさらに広範になってきます。現在の科学の情報量や分野の多さの中では、どのような専門家も限られた分野の専門家に過ぎず、自身のカバーする範囲を超えたこととなると、確かだと相当な確度をもって社会に発信できることは非常に限られると思います。今回のような社会や人の安全・健康に関わることであれば、なおさら断言することは難しいと思います。先の言は、発言者の予防線としてではなく、専門家とされる人の発言は100%の確かさを持っていると鵜呑みされることへの予防線として捉える必要があるとも思っています。

私は、専門家の見解のミスや曖昧さを擁護したいのではありません。ただ、専門家が言っているからと、多くのミスリーディングが起こり得ることを懸念しているだけです。論文で"孫引き"をするような感じで、情報を得て発信することは容易だけど、それは「解説者」に過ぎないと思います。真摯な専門家ほど、孫引きのような情報を良しとせず、結果として言えることが限られるのかも知れません。

 

私も科学者の1人ですが、違う科学のことはただの素人であり、いわゆる一般市民です(多少科学的な見方ができるだけで、専門知識は場合によってはほとんどないです)。ただ、科学には確からしいとされていることがあり、それらの確からしさの程度にもバラつきがあり、たいていの場合、反する仮説も存在していることを、認識しています。専門家が言うから真実なのだろうと鵜呑みされることは危険だと思います。社会の各人が色々な意見を収集し、あくまで客観的に多様な意見を取捨選択する能力を得ることが、重要だと感じています。これがリテラシーと言われるものなのでしょうか?

専門家には専門家の責があると思います。今回のような状況でこそ、科学ができることが多くあると思います。分からない、予測できない、想定外と言って、科学の無力さを露呈するだけではいけないと思います。ただ、不確実性があること、想定外なことは、必ず生じると思います。すべてが想定内ならば、科学は不要であり、人間は万能の存在だと思います。

今回の一連の災害が、既知の事象の範囲内であったならば、リスクに対する備えの怠慢さが問題であり、科学と実社会とのリンケージの弱さが露呈されたことになります。あるいは、科学的理解を超えたことならば、科学の想定外の事象が起こり得ることを認識し、今後につなげることが必要だと思います。

 

いずれにせよ、科学の在り方、科学の発信の仕方、科学と社会のつながりを考えさせられました。そして、自身の知識の狭さ、できることの少なさも痛感しています。今は、社会や科学について考えながら、普通にできる日常を普通に過ごすことが重要だとも思っています。

 

研究にまつわる写真

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